銭湯は地域のあったかコミュニティ

廣田 亜希子

 銭湯であたたまろう!仕事帰りや休日のお楽しみ、レジャーの帰りに良いお湯どうぞ♪帰り道はほっこり、みんないい笑顔。 

 現在、西東京市内には、庚申湯(芝久保町)、ゆパウザひばり(谷戸町)、みどり湯(ひばりが丘)の3軒の銭湯が営業しています。昭和40年代には、旧田無市に9軒、旧保谷市には13軒、合計22軒の銭湯がありました。駅前や学校の近く、商店街の中にもあり、「一つの町に銭湯が一つある」と言われたほど、とても身近な存在でした。それまでは、ほとんどの家に風呂設備がなく、仕事帰りや家族連れだって銭湯に通う生活が続いていました。人々の公衆衛生を守るために作られた銭湯ですが、昭和50年代以降に各戸のお風呂保有率が64%以上になった頃から、次々と減ってしまいました。
 西東京市が誕生した2001(平成12)年には、その数が8軒に。人口20万人を超えた2017(平成29)年には4軒となり、2020年(令和4)には、松の湯(南町)が惜しまれつつ廃業。それでも銭湯の灯を絶やさぬよう、夕方からの営業、夜中の清掃、昼間の準備を、3軒の銭湯が毎日続けています。


ゆパウザひばり

毎日、そこに、あったかいお風呂がある

 ひばりヶ丘駅から徒歩5分、谷戸商店街から路地に入った先に建つ鉄筋コンクリートビルの1階に、「ゆパウザひばり」があります。三代目主人の広野一輝さん夫妻と、二代目の父・輝夫さん夫妻が、親子一丸となり営んでいる銭湯です。
 実はこの地には、かつて日本の戦闘機エンジンを生産していた中島航空金属(昭和13年・のちの住友重工業株式会社田無製造所)の社員浴用施設が建てられていました。五反田で銭湯を営んでいた広野さんの祖父母がこの地に移り住み、そこに浴用施設を建て替えて銭湯「桐の湯」を開いたのが、1972年(昭和47)のことでした。その後、父・輝夫さんが2000年(平成12)に鉄筋コンクリートビルに建て替えて、モダンな平成の銭湯をと、屋号も「ゆパウザ」に改め、新たにスタートしました。
 店名の由来は、音楽の楽譜で使われる休符 “パウザ” という言葉を取り入れたと、輝夫さん。「この地に暮らす人が、ほっと一息お風呂で休んでほしい」との願いを込めています。
 ゆパウザひばりの名物の一つが、地下100メートルから汲み上げている「水」。井戸水かけ流しの水風呂は、冷たい川に入っているような、きりりとした清々しさ。水質が良い、体に合うからと通うお客さんも多いとのこと。お湯の温度は季節により変えていて、冬の薬湯は39度、浴槽によっては41度くらいまでの、熱すぎない入りやすい温度に設定しています。おすすめの入浴法は「2〜3回お風呂につかった後、水風呂に入ると肌がピリピリ。そのあともう一度お風呂で温まると、めちゃくちゃ気持ちいい。虜になる」と一輝さん。
 銭湯店主としてこだわっている点を尋ねると、「お風呂を毎日きれいには、当たり前。シャワーやカラン、鏡もピカピカにしていますよ」とキリリ。「お客様にはお風呂に入って、ハッピーな時間を過ごしてもらいたい」と、毎日全力で掃除をしているそうです。約50年、まちの人たちを癒している、気さくで気持ちの良い銭湯です。

球形の照明やタイルの色づかい、曲線で仕切られた浴槽など、華やかさと落ち着きのある雰囲気。
住 所〒188-0001 東京都西東京市谷戸町3丁目17−8
営業時間15:00〜23:00(日曜・祝日は13:00〜) 
定休日木曜
駐車場14台 駐輪場:あり
H Phttp://www.yu-pauza.com/

庚申湯

変わりゆく町の景色と、人々の心のより所

 江戸時代にあった信仰の一つ「庚申講」。60日に一日回ってくる庚申(かのえさる)の日に、夜通し集会を開く“講”を行っていた歴史が、この地域にもあります。
 庚申湯の敷地に祀られている庚申塔は、府中道沿いに建ち、当時は畑が広がる農村地帯にありました。本尊の青面金剛が草刈り鎌とカギを持ち無病息災・五穀豊穣を願った庚申塔です※。かつて南芝久保と呼ばれた地域にできた銭湯「庚申湯」は、1回目の東京オリンピックが開催された1964 (昭和39)年に開店しました。敷地北側にあった三共製薬工場の南側の土地を掘り下げ、深さ150メートルまで井戸を掘って作られた銭湯です。当時から近隣住民や社員寮の人たちが毎日通い、現在も町のシンボルとして愛され続けています。

右に見えるのが庚申塔

 庚申湯が開店すると、周辺に「スーパーマルサン」や「理容室ヨシノ」「ふじや酒店」などが営業を始めました。庚申橋を渡った石神井川沿いにも中華料理店やケーキ屋、蕎麦屋、自転車屋ができ、やがて「庚申通り商店街」となり、現在は数軒が営業を続けています。
 初代店主の父・新井一男さんから引き継ぎ、25年以上庚申湯を切り盛りしている二代目・新井裕之さんは、「自分が銭湯を継ぐのが当たり前で自然なこと」と、大学卒業後に継ぎました。閉店後の夜中に広い浴室を掃除する、体力的に大変な仕事ですが「汚れがつく前に落とす」と隅々まで清掃に余念がありません。「広い銭湯で温まって、気持ちよく汚れも疲れも落としてもらいたい」と話します。
 開店から40年が経った2004(平成16)年に大改築をしました。開店当時からの柱と柱時計、格子天井はそのまま残し、番台はフロントに変更、4種類のジェットバスと露天風呂、サウナを新設。池を撤去し広い下駄箱と休憩室に大窓を設け、外から中の様子が見えるようにしました。当時は、周辺の大型工場が相次いで解体・移転し、大型マンションや住宅へと変わる時期。「銭湯に馴染みがない若い人も来てもらいやすく」と考えた銭湯の姿です。2009(平成21)年に煙突を撤去し、伝統の破風づくり屋根は銭湯専門の大工が新しい材に葺き替えました。新井さんが「明るい富士山の絵を」と依頼した壁面のペンキ絵も描かれ、まさに“旧きを新世代につなぐ“銭湯となりました。
 今も毎日開店前になると常連さんが列をつくり、夕方には家族連れや若い世代も訪れ賑わいます。浴室に響くかけ湯や洗面器の音に交じってお客さん同士のおしゃべりも明るく楽しげ。「銭湯でだけ会う友達というのもありますね。気持ち良くお風呂に入っておしゃべりして、家路につく。そんなところも銭湯の良さ」と新井さん。銭湯をとりまく風景は大きく変わりましたが、昔ながらの風情は変わらず、私たちに癒やしと元気をくれる存在です。

住 所〒188-0014 東京都西東京市芝久保町1丁目13−2
営業時間 15:00~23:00
定休日毎週月曜日(第1・第2月曜日火曜日連休)
駐車場13台 駐輪場あり
H Phttp://www.koushin-yu.com/index.html

銭湯って何だ?

お風呂の歴史は、仏教が伝来し、仕事として仕える人が汚れを洗い流す寺院の施浴が入浴の始まりといわれています。もともと家に風呂はなく、平安時代末期に「湯屋」が初めて作られました。鎌倉・室町時代には庶民に風呂をふるまわれる機会が作られ、江戸時代は蒸し風呂として庶民に浸透していきます。明治・大正時代に洗い場や浴槽の造りが現代の様式になり、その数も町ごとに銭湯があるといわれるようになったそうです。昭和に入ると第二次世界大戦後の復興からさらに増え、地域住民の公衆衛生の向上及び増進並びに福祉の向上に必要なもの・公衆浴場として位置づけられています。

※掲載の情報は取材当時のものです。最新の情報は各公式ホームページ等でご確認ください。
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著者
廣田 亜希子
ライター
西東京市歴19年(射手座)。伝説のライターチーム・ままペンシルを立ち上げたのち、企画・編集・ライティングを行っている。ラジオ番組ディレクターやアンテナショップ「まちテナ西東京」副店長を経て多摩六都科学館勤務。5市の魅力を発見・発信するプロジェクトを企画・担当。メディアを問わず、地域の定番とマニアックな両面にフォーカス。「842PRESS」では巻頭特集、マニアックスページなどを担当している。
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