滝島俊の西東京市歴史探訪①。今回は高橋源蔵家についてのお話です。
高橋源蔵家と武蔵野鉄道
地域有数の資産家だった高橋源蔵(3代目)は、物流や町の発展には鉄道の誘致が重要と考え、武蔵野鉄道設立に投資しました。孫の源太郎は、明治45年に持ち株1200株(当時6000円)を取得、大株主となり監査役、後に取締役になります。影響力を強め、土地や資産を武蔵野鉄道に提供することで、当初計画されていた「巣鴨(始点)―片山村(現・新座市栗原辺り)間」の敷設ルートを変更させました。池袋始点で保谷に停車場を誘致し、武蔵野鉄道開通と同時に「保谷駅」が大正4年に誕生しました。
池袋―所沢間が電化された際(大正11・1922)には、再び土地を提供し、保谷電車庫(現保谷電留線。下保谷5丁目14番地)の開設に尽力しました。
保谷駅へ誘致したことで南側にそれたルートは、本来の清瀬・所沢に向け少しずつ北上し、田無町駅(現・ひばりヶ丘駅)が開業(大正13・1924)。マンモス団地を抱える駅として発展し、現在も進化し続けています。源蔵・源太郎の働きがなかったら、西東京市初となった保谷駅も、ひばりヶ丘駅も存在しなかったでしょう。池袋発最終電車が保谷行きなのも、保谷発の始発電車があるのも、電車庫があるおかげです。
保谷の民族学と現代
高橋源太郎の息子・文太郎は、「武蔵保谷村郷土資料」を刊行するなど地元民族学にも情熱を注いだ研究者でした。保谷に於いては、渋沢栄一の孫・敬三と共に日本初の野外展示博物館である「民族学博物館」の設立に貢献しました(昭和14・1939)。しかし、昭和37年(1962)には閉館し、その所蔵物の多くは大阪の国立民族学博物館に寄贈されました。けやき通り沿いに建てられた銘板が、当時を偲ばせます。
資産家として地域の発展に尽力した高橋源蔵家ですが、文太郎が45歳(昭和23・1948)の若さで亡くなると、当時「保谷御殿」と呼ばれた高橋家の屋敷(東町)は、西武鉄道の堤康次郎の手に渡り「保谷武蔵野」という北京料理の料亭に。平成14年(2002)に惜しまれつつ解体された後、ファミリーレストランを経て現在は大規模なマンションが建っています。高橋家は、他にも駅前商店街の開発、文化住宅の誘致・造成、農場設立、グラウンド跡地など、土地提供などを通して地元の発展に貢献しました。グラウンド跡地を活用した文理台公園では、近年夏祭り・花火大会が開かれてきました。
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