田無山總持寺

滝島 俊

明治8年、3寺が合併して創建されたお寺で、関東三十六不動霊場の第十番札所に数えられ、新東京百景にも選ばれています。立派な山門と大きなケヤキのある境内では、だるま市、梅の市などが行われます。

 田無山總持寺と称し、真言宗智山派の寺院です。創立は不詳ですが、元和年間(1615~24)に谷戸にて「法界山西光密寺」として開創されたと伝えられています。古道横山道沿いに建立され、宮山に鎮座していた尉殿権現社の別当寺を勤めていました。横山道沿いの集落は、田無、上保谷の発祥の地とされ、沿道には三宝寺の流れをくむ如意輪寺、宝樹院、宝晃院が建ち並び、西光寺と合わせて四軒寺と呼ばれていました。谷戸地区は鎌倉時代末期の延慶(1308~11)の板碑が発掘されるなど、信仰・宗教的にも重要な土地でした。

文久年間に下田半兵衛富潤が創立した妙見堂。現在の堂宇は再建。

 徳川家康が江戸に幕府を開くと、江戸城修復のために大量の白土(石灰)が必要となり、石灰の産地である青梅を結ぶ道が作られます。現在の青梅街道です。谷戸や周辺の住民は、この石灰を運ぶための伝馬(てんま)役として街道筋の継場へ駆り出され、やがて継場に移住することになります。現在の田無集落の誕生です。しかし、住人の減った谷戸地区は次第に活気を失い、西光寺も荒廃したようです。

2002年(平成14)に改修された厳かな本堂

 やがて街道筋の田無村が尉殿権現を遷座し現在の地に鎮座させると、慶安年間(1648~52)に西光寺も現在の地に移ります。その後明治になるまで、尉殿権現の別当寺として村の発展を見守りました。西光寺は田無村に住む家々のほとんどの檀那寺であり、特に名主であった下田半兵衛の加護を大いに受けました。

荘厳な内陣。市の指定文化財「下田半兵衛富宅の木造」や「尉殿大権現 神号額」が安置されている。

 1850年(嘉永3)には恵亮和尚と半兵衛富宅が中心となり本堂再建が叶い、その落慶記念としてケヤキを植栽しました。そのうちの1本が現在も残り、「總持寺のケヤキ」として市の指定文化財になっています。1868年(明治元)に勃発した戊辰戦争では、上野の彰義隊から分裂した幕臣たちが西光寺に集結し、振武軍を組織し飯能戦争を戦いました。1872年(明治5)の神仏分離令により尉殿権現(田無神社)と切り離され、1875年(明治8)には密蔵院、観音寺と合併して總持寺となりました。現在は関東三十六不動霊場の第十番札所に数えられ、新東京百景にも選ばれています。

總持寺のケヤキ

總持寺で開かれる市

總持寺で開かれる市は、3月の「だるま市」、5月の「苗市」、6月の「梅市」です。写真は30年ほど前のだるま市と苗市のもの。町の人々は、市が立つのを楽しみにしていました。
写真提供:總持寺

住 所〒188-0011 東京都西東京市田無町3丁目8−12
アクセス西武新宿線「田無駅」北口より徒歩6分
電 話042-461-0044
H Phttps://www.city.nishitokyo.lg.jp/daisuki/spot/tanasisansozizi.html

※掲載の情報は取材当時のものです。最新の情報は各公式ホームページ等でご確認ください。
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著者
滝島 俊
郷土史研究家
旧保谷市出身(射手座)。以前は光学機器メーカーのエンジニア。下野谷遺跡のマスコットキャラクター「しーた と のーや」のデザインを手がけ、地元に目を向けるように。現地に足を運び資料文献の両面からデータを積み上げる、根っからの研究者。趣味はカメラとものづくり。土地の歴史や遺構などに興味を抱くマニアックな一市民である。最近ではまち歩きのイベント等でも講師として活躍している。
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