西東京いこいの森公園と原子核研究所

廣田 亜希子

日本の科学研究の礎が、西東京いこいの森公園の敷地にありました。「核研」と呼ばれた東京大学原子核研究所は、1955年から43年間稼働し、当時国内最大・最先端の原子核素粒子研究施設として、研究体制や人材の基礎を築きました。 

西東京いこいの森公園は、西東京市のほぼ中央に位置し、面積は約4・4ヘクタール。市内最大の広さで、2005年(平成17)に、旧保谷市と旧田無市の合併を記念して造られた公園です。

 以前は日本の原子核素粒子研究の礎となった歴史的研究施設「東京大学原子核研究所」が建っていた土地でもあります。
 「核研」と呼ばれた東京大学原子核研究所は、日本学術会議の勧告(1953・昭和28年)に基づき、大型実験設備を持つ原子核素粒子研究施設として1955年(昭和30)7月に設立されました。第二次世界大戦後に禁止され、停滞していた日本の原子核研究を再開すべく、原子核特別委員会委員長の朝永(ともなが)振一郎博士、初代所長となった菊池正士博士らを中心に働きかけ、多くの研究者たちの熱意により実現しました。研究所内では原子核・素粒子・宇宙線に関する基礎的・先端的研究が43年間続けられ、現在の日本の物理学・科学の元となる研究成果をいくつももたらしました。

Ⓒ東京大学原子核研究所パンフレット「ミクロの世界にいどむ」

 核研についてもう一つ特筆すべき点として、すべての研究者に向けて開く「全国共同利用研究所」という革新的な体制が挙げられます。設立趣意書には、巨大設備の必要性と研究や設備の膨大な費用面について、全国の大学を縦断し研究分野を横断して研究体制を組むこと、研究者が協力して自主的に研究を行なうこと、また大学や大学院など後進への指導等について記されています。情熱を持った研究者が多数核研に出入りでき、自由闊達な環境で研究・交流が行われていました。日本の原子核素粒子研究の最先端であり、その後の設備や研究体制の指標となっただけでなく、日本の科学における人材教育や礎を築いた点でも大変意義深い施設でした。
 日本学術会議が大規模な原子核研究施設に関する勧告を出した翌年には設立準備委員会が発足しました。建設候補地は、西千葉と田無の2カ所でしたが、西千葉は都心からの距離が遠いこと、また研究に欠かせない水道利用に難があったこと、潮風が直接機械に触れるといった理由で見送られ、田無に決まったとされています。

田無で芽吹いた科学の芽

 戦後、最先端の拠点・指標となった核研ですが、日本社会の成長に伴う改組により全国の研究施設や組織へ移りました。
 1997年(平成9)には、核研(田無)、高エネルギー物理学研究所(つくば)、東大中間子科学研究センターの統合により、現在の「高エネルギー加速器研究機構(KEK)」が組織され、「東大原子核科学研究センター」も同時に発足。田無の敷地では引き続き「KEK田無分室」「東大宇宙線研究所」「東大物性研究所軌道放射物性研究施設」「東大原子核科学研究センター」の研究活動が行われました。最終的には核研内それぞれの研究部門がKEKや東京大学・京都大学などに移転。2000年(平成12)8月にその歴史の幕を閉じました。田無で使用していた研究機材や設備は一部東大理学部(和光市)に移したとされています。
 この地から全国に多数の研究者が旅立ったことで、日本国内の研究に関する裾野は広く厚くなり、後の日本の科学研究の目覚ましい成果へと繋がったことは明らかで、ノーベル物理学賞受賞者も複数輩出しました。

全国から研究者が集まり、分野を横断した基礎研究が行われていた。
Ⓒ東京大学原子核研究所(1996年) /Ⓒ高エネルギー加速器研究機構
かつての研究の場は、西東京市民の集ういこいの公園に

 公園内には「原子核研究所址碑」が建立されています。址碑は、当時「プレハブ輪講室」という名で親しまれたセミナールームがあった場所に建立されました。隣には核研時代にもあった欅の木が残されています。址碑には、木曽御岳山から運び出した大小2つの岩(自然石)が据えられました。その重さは合計20トン余り。日本の原子核素粒子研究の礎として、その名を語り継がれるようにと、苔むす石に祈りを託しました。

原子核研究所址碑と欅の木、木曽御岳山の自然石


 開園前に行われた址碑のお披露目には、原子核研究所にゆかりの人々が集い、除幕式が行われました。また2017年(平成29)には、核研出身で東京大学宇宙線研究所長も務めた梶田隆章博士のノーベル物理学賞受賞記念の植樹式が行われました。梶田博士はじめ日本を代表する研究者約20名が思い出の地に集まり、梶田博士のほか、同研究核研所長も務めた武田暁博士と当時の丸山市長の手によりハンカチノキが植樹されました。

原子核研究所から輩出されたノーベル賞受賞者たち

素粒子から光、物性、宇宙まで、あらゆる分野を網羅する物理学。
日本における物理学研究の礎となった「原子核研究所」から、4人のノーベル賞受賞者が輩出されました。この地での研究が実を結び、日本や世界の物理学への貢献へとつながります。

1965年受賞
朝永 振一郎 博士(1906-1979
湯川秀樹博士に続く日本人2番目のノーベル賞受賞者。「超多時間論」を基に「繰り込み理論」の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績を高く評価された。

2002年受賞
小柴 昌俊 博士(1926-2020)
素粒子観測装置「カミオカンデ」(岐阜県)にて素粒子「ニュートリノ」を世界で初めて観測した。

2008年受賞
益川 敏英 博士(1940-2021)
小林誠博士とともに合同で「CP対称性の破れ」を理論的に説明した「小林・益川理論」を提唱。その正しさが認められた。

2015年受賞
梶田 隆章 博士(1959-)
ニュートリノに質量があることを示す「ニュートリノ振動」を発見した。小柴昌俊氏は恩師にあたる。

住 所 〒188-0002 東京都西東京市緑町3丁目2−2
時 間通年 9:00~19:00(パークセンター)
ボール広場平日: 12:00~18:00(10月1日〜3月31日は17:30)
 土・日・祝祭日・年末年始(12月31日から1月3日): 10:00~18:00
バーベキューコーナーご利用については、事前の予約が必要です。 事前の予約は、いこいの森公園パークセンター Tel.042‐467‐2391にお申込ください。 (受付時間/毎日9:00から17:00まで)

※掲載の情報は取材当時のものです。最新の情報は各公式ホームページ等でご確認ください。
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著者
廣田 亜希子
ライター
西東京市歴19年(射手座)。伝説のライターチーム・ままペンシルを立ち上げたのち、企画・編集・ライティングを行っている。ラジオ番組ディレクターやアンテナショップ「まちテナ西東京」副店長を経て多摩六都科学館勤務。5市の魅力を発見・発信するプロジェクトを企画・担当。メディアを問わず、地域の定番とマニアックな両面にフォーカス。「842PRESS」では巻頭特集、マニアックスページなどを担当している。
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