滝島俊の西東京市歴史探訪⑧。今回は千川上水と上保谷新田の水車のお話です
千川上水の開削と武蔵野新田村
開府以来、爆発的に人口が増えた江戸の町は、元々海岸に近い湿地帯を埋め立てた造成地が多く、井戸水は塩分が多く飲用に適しませんでした。1590年(天正18)に井の頭池を源泉とする神田上水を開削し市中に供給しますが、需要増大に伴い1654年(承応3)には多摩川から引水する玉川上水の開削を行います。五代将軍徳川綱吉の時代の1696年(元禄9)には、小石川、上野、浅草方面への給水を目的とした千川上水の開削を行いました。 玉川上水の境橋付近で分水された千川上水は北東への流れとなり、後に西東京市と武蔵野市との境界となりました。
八代綱吉の時代の1722年(享保7)に、幕府は年貢増収を目的に武蔵野台地上の未開発地での新田開発を推進し、多くの村が開拓に参加しました。「武蔵野新田」です。その一つである上保谷新田は、上保谷村を親村として開発を行った新田で、当初の入植者(出百姓)は上保谷村からの2軒であったと伝えられています。上保谷新田は西東京市の最南部に位置し、現在の新町と柳沢の一部を含む千川上水沿いの東西に長い土地でした。上水があるとはいえ、土地は痩せており作物の収穫には大変な苦労があったと伝えられています。
上保谷新田の水車稼ぎ
上保谷新田の草分け百姓であった平井伊左衛門(繁庸)は、1818年(文政元)に水車設置を願い出て受理されます。水車場の位置は現在の柳橋交差点西角付近で、専用水路を千川上水の上流約400mから引き込んで水車を回し、精白、製粉などの「水車稼ぎ」で財を成しました。1835年(天保6)に上保谷新田が親村の上保谷村から分村し、上保谷新田村として成立すると、伊左衛門は名主となります。
名主伊左衛門は襲名により代をつなぎ、明治初期までその職に就きました。
千川上水は、何度も江戸市中での給水の停止・復活を繰り返しましたが、上流域である上保谷新田での流れは1707年(宝永4)の農業用水利用許可以降確保されており、水車は稼働を停止することはなかったようです。
維新後も精白・製粉用途として使用されてきた水車ですが、明治半ばになると名主家であった平井週作(明治2年の御門訴事件の中心人物)によって、水車は銅線工場の動力として利用されるようになります。千川上水下流には新たな水車場(坂上水車)を設け、事業を拡大させました。実際の経営は三谷氏、奥住氏によるものと思われますが、ここに保谷地区での工業の歴史が始まりました。
現在その2つの水車による工場の姿を見ることはできませんが、当初の水車場は伸銅工場として昭和末期まで、坂上水車は戦時中、中島飛行機の部品工場として、町の産業に寄与しました。
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