国史跡 下野谷遺跡(したのや縄文の里)

滝島 俊

 下野谷遺跡は、西東京市東伏見二丁目、三丁目、六丁目地内に所在する縄文時代中期(今から約5千年前から4千年前)の環状集落であり、南関東では傑出した規模と内容を誇っています。平成27年3月に一部が国史跡に指定されました。 

 今は東伏見と呼ばれている地区の、石神井川を見おろす台地の上に南関東最大級の縄文のムラ・下野谷遺跡(したのやいせき)はあります。周囲には石神井川や溜池(現在の武蔵関公園内)などの湧き水があり、日当たりの良い場所だったようで、約5,000年から4,000年前の縄文時代中期に、1,000年もの長きにわたりこの地域の拠点として栄え、人々が営みをつなげた集落でした。

 縄文時代中期に盛況を誇ったこのムラですが、縄文時代後期になると住居の跡や土器や石器などがほとんど発見されなくなります。これは気候変動や生業形態を含む社会変化が原因のようで、人々はより水稲稲作農耕に適した地域へ移っていった結果と考えられます。その後、弥生時代から平安時代後期にかけて僅かな住居跡や土器片が見つかっている以外、人々が定着した跡はほとんど見つかっていません。ながらく葦原と山林原野の時代が続きました。この地に、再び光が当てられたのは約50年前の事です。1972年以降の本格的発掘調査により縄文時代の大集落の存在が徐々に明らかとなり、1975年には重要な遺跡という事で、この地で呼ばれていた旧字名にちなんで「下野谷遺跡」と名付けられたのです。

 現在まで遺跡調査が行われたのはまだ全体の約1/10程度。現段階で既に450軒以上の住居跡や大量の土器・石器、生活の痕跡が見つかっています。そのほとんどが縄文時代中期のもので、当時の生活を知る貴重な遺物です。まだ発掘されていないその多くが当時のまま地下に眠っているのです。下野谷遺跡は、広場を5,6軒の住居で円形に囲む「環状集落」と呼ばれる縄文時代の典型的な構成で、1,000年以上に渡り平和な暮らしが営まれていたと考えられています。さらに、このようなムラがなんと2つ以上あったことが分かっており、「双環状集落」と呼ばれる大規模なものと思われます。これほどの大規模な遺跡は関東地方でも数えるほどしかありません。「したのやムラ」は、石神井川流域で地域の拠点となる中心的役割をもっていたムラだったと考えられる理由です。   

 このような大きな集落跡が、都心に近く都市化の進んだ市街地の中に残されていたことはとても珍しく貴重なため、2015年3月に国史跡に指定されました。文化遺産として適切に保存し、市民に多く活用され、遺跡の本質的価値を、世代を超えて未来につなげることを目的に、遺跡は進化しました。2023年には竪穴式住居を2棟、および土抗墓(お墓の復元)や土器の廃棄状況(土器溜り)など復元し、見学できるように整備しました。土葺きの竪穴式住居は、夏は涼しく冬は暖かく、中央にある炉を囲んだ当時の生活を偲ぶことができます。遺跡の整備地も「したのや縄文の里」と命名され親しみが持てるようになりました。エントランスにある解説板には下野谷遺跡、および縄文時代の暮らしが詳細に記載されており、学びの場としても活用されています。現在は“したのや縄文里山プロジェクト”として、ムラ人(下野谷遺跡を大切に守る志を持った人達)を中心に縄文菜園や語り部の活動が行われています。

 下野谷遺跡は、竪穴式住居の内部公開や、秋に行われる「縄文の森の秋まつり」などを通して、地域の魅力を発信する場所となっています。東伏見駅前ロータリーにある下野谷遺跡のマスコットキャラクター「しーた と のーや」に導かれて、下野谷遺跡を訪ねてみませんか。

しーたとのーや ©T&K/西東京市
住 所東京都西東京市東伏見6-4 西武新宿線「東伏見駅」南口より徒歩約7分
H P https://www.city.nishitokyo.lg.jp/enjoy/rekishi_bunka/rekishi_bunka2/sitanoyaiseki.html

※掲載の情報は取材当時のものです。最新の情報は各公式ホームページ等でご確認ください。
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著者
滝島 俊
郷土史研究家
旧保谷市出身(射手座)。以前は光学機器メーカーのエンジニア。下野谷遺跡のマスコットキャラクター「しーた と のーや」のデザインを手がけ、地元に目を向けるように。現地に足を運び資料文献の両面からデータを積み上げる、根っからの研究者。趣味はカメラとものづくり。土地の歴史や遺構などに興味を抱くマニアックな一市民である。最近ではまち歩きのイベント等でも講師として活躍している。
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