滝島俊の西東京市歴史探訪⑩。今回は公衆浴場と田無中学校についてのお話です。
戦後の復興と公衆浴場
戦争末期に多大な被害を受けた田無、保谷地区ですが、終戦後は一歩一歩復旧に向けて進みだしました。 戦時中に疎開などで減少した人口も、戦後は空襲による東京都区部の被災者などが数多く移住してきたこと、および引揚者などにより増加しだしました。 住宅は増えましたが、この当時内風呂の家庭はわずかで、公衆浴場の利用が中心でした。都内を含めて公衆浴場(銭湯)の数は昭和初期から戦中にかけてピークを迎えましたが、戦禍により数を減らしていました。田無の銭湯も1945年(昭和20)4月12日の空襲で吹き飛ばされたままになっていました。町民は難儀し、夏は行水、冬は内風呂のある家庭にもらい湯に行ってしのいでいました。1947年(昭和22)4月、田無町町長選挙で第11代田無町長となった總持寺の住職である小峰順誉は、公約の一つに「田無駅北口の公衆浴場の再建」を掲げていました。 早速保谷町坂上(現東伏見5丁目)にあった中島飛行機社員用だった休業中の浴場を買収し、これを田無駅前に移築することにしました。しかし、財政難のおり資金調達に苦労し、費用総額70万円のうち約30万円は小峰町長が總持寺世話人と相談の上、寺の山林を売却し、残りは農家や町議などからの借入でまかないました。経営は当面、浴場経営者に委託し、1948年(昭和23)8月に町有公衆浴場「富士見湯」が完成しました。現在のLIVIN入口前のペデストリアンデッキの階段付近になります。その後30年以上に渡り公衆衛生を担ってきた富士見湯ですが、1980年代に入ると姿を消していきました。
田無中学校の開校
一方、戦後の学制改革により新制中学校として、1947年(昭和22)4月に田無小学校内で田無中学校が開校しました。この時は小学校の仮校舎として開校したため、小平にあった旧陸軍経理学校の兵舎を、中学校の校舎に転用するための移築工事が行われ、翌1948年(昭和23)4月に移築が完了しました。旧兵舎が赤塗りだったため、“赤板中学”などと呼ばれていました。しかしながら、兵舎を転用した教室は使いにくく、教員などから不満の声が上がりました。そこで、改めて、田無駅南側に校舎を新築することし、その資金に東京都の起債と町有公衆浴場富士見湯の売却費を振り向けることにしました。これに対して福利厚生の見地から浴場売却に反対する声が上がり、町議会が紛糾しましたが、最終的には提案が通り、浴場は250万円で経営委託者に売却されました。新しい田無中学校は現在の西東京市役所田無庁舎のある敷地に、総工費780万円を投じて1950年(昭和25)10月に木造2階建12教室の新校舎として完成しました。1967年(昭和42)には田無第一中学校に改称。1973年(昭和48)には現在の地に移転しました。一見関係がないと思われる公衆浴場と中学校。そこには意外な歴史の結びつきがあります。
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