東大農場と失われた横山道

滝島 俊

 滝島俊の西東京市歴史探訪⑨。今回は東大農場と横山道のお話です

東大農場の誘致

 西東京市の中央やや西側に広がる緑町。現在、この地の大部分を占めるのが東大農場として親しまれている敷地です。研究施設ですが春には桜、初夏にはハスの見本園が公開されてきました。現在の正式名称は「東京大学大学院農学生命科学研究科附属生体調和農学機構」といい、隣接する「附属演習林」と共に宅地化が進む西東京市の中のオアシス的存在です。
 1878年(明治11)、駒場で開校した農学校に端を発した東大農場の歴史は古く、やがて農場及び苗圃見本林の拡充を検討することになります。この時に田無町は誘致活動を積極的に行い、1929年(昭和4)10月に広さ約11万坪もの土地を坪5円50銭で売却しました。谷戸山一帯は、クラミヤマと呼ばれた松林で、畑はありましたが、人家は一軒もありませんでした。当時の土地の価格は坪3円が相場でしたが、相場以上の約60万円という莫大なお金を手に入れました。当時は不況で田無の多くの農家も借金に苦しみましたが、この売却により助けられた家も多く存在しました。この売却費の一部(約1万円と言われている)で、田無町の町役場を新築し、1932年(昭和7)にお披露目されています。 

失われた横山道

 東大農場用地のほぼ真ん中を東西に、古道が走っていました。その道を古くから「横山道」、または「鎌倉街道」と呼んでいました。この横山道は東大農場が誘致された際に一緒に売却されてしまいました。古くから谷戸・北原と西原を結ぶ連絡道でしたが、この売却により道は無くなりました。実はこの町道を売った分で町役場の建設費用をまかなったようです。
 横山道は市内で最も古い道の一つとされ、沿道には寺が建ち並び、田無・保谷の発祥の地と言われている集落を貫く古道ですが、この売却により横山道は分断され、谷戸新道側の東側と六角地蔵尊交差点までの痕跡を失いました。
 六角地蔵尊は1779年(安永8)に建立された六面の角柱の地蔵尊で、横山道(鎌倉街道)と所沢街道が交わる六差路の辻に建てられ、道標も兼ねています。所沢街道を指す所沢道・江戸道。横山道を指す小川道・保谷道。前沢道、南沢道の6方向です。本来の六角地蔵尊は失われた横山道と所沢街道の角に立っていたのですが、道路拡幅工事の関係で、所沢街道を挟んだ向かい側に移築され、向きも180度回転しています。道標の方向も回転していますので、道標に頼って旅をする際はお気を付けください。
 現在、東大農場を横断する「新所沢街道」が建設され、位置こそ若干違いますが、六角地蔵尊交差点は六差路に復活しました。いにしえの横山道の痕跡は今となっては確認できませんが、農場東側の「東大農場通り」の塀沿いには当時の大学名「東京帝国大学」を表す「帝大」と刻印された境界標が何本か確認できます。 

東大農場内の横山道のルート(赤破線)(地理院地図に加筆)

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著者
滝島 俊
郷土史研究家
旧保谷市出身(射手座)。以前は光学機器メーカーのエンジニア。下野谷遺跡のマスコットキャラクター「しーた と のーや」のデザインを手がけ、地元に目を向けるように。現地に足を運び資料文献の両面からデータを積み上げる、根っからの研究者。趣味はカメラとものづくり。土地の歴史や遺構などに興味を抱くマニアックな一市民である。最近ではまち歩きのイベント等でも講師として活躍している。
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